「真実の愛」を探しています。

俺は少しずつ変わることに成功している。少しずつ"素直さ"というものを獲得できているような気がする。俺は捻くれているためストレートの球は投げられないが、カウンターのカウンター、反逆の反逆は最も実直で素直であると信じている。

 

思えばこの一年は非日常的な日常でこのままこんな日々が一生続くわけではない日々だったわけだが、ある意味この「非日常感」が俺を少しずつ変えてくれているのかもしれないと思う。変わってきたとは言っても、気持ちがこもった文章は冗長だし写真を撮る時に恥ずかしくて変な顔をしてしまう癖は治っていない。しかし、それでもいい。それでもいいと思えることこそが変化であり、成長であると思っている。

まだ受験が終わったわけではないし、本当はこんな文章を書いている暇などないし、当然共通テストの点数も芳しくはないのだが、それでも、いい。それでもいいと思っている。受験が終わっても、人生は終わらないし終わらせる必要もない。

 

先日、俺たちが住んでいる寮で火災報知器が鳴った。深夜4時のことだ。

「一階で火事です。非常階段で避難してください。」

という放送とサイレンで飛び起きたが、まだ夢か現かわからないまま上着を着たり財布と携帯を拾ったり、「こういう時ってマスク必要なのかな、死ぬくらいならマスクいらないよな」とか考えたりして部屋から出たときに誤報であることが分かった。既に階段にいた他の住人たちは多少の悪態はつきながらも少し安堵したような表情だった。部屋に戻ると今自分が何をしているのかが全く分からなくなる状態に陥ってしまった。遠くから消防車のサイレンが聞こえる。ベランダに出てみると一階に住人が数人いた。そもそも一階で火災が起きたら一階に逃げたらダメじゃん、と思った。その日は妙に目が冴えてしまいそれから眠れなかった。

次の日、防犯カメラに映った通行人の画像がエレベーターに張り出されていた。

しかし、あの日の火災が本当のことだったら俺たちは死んでいたかもしれないのである。こんな想像は不謹慎だし不必要であるが、そう考えずにはいられなかった。去年大学受験に失敗し、合格するためだけに半ば鬱っぽい若者たちの集まる建物は炎上していたのである。大学受験に失敗したせいで、それでも諦めきれなかったせいで、死ぬのである。一年間の努力や、涙や、苦しみが全て灰になるのである。それが、どういう意味なのかを考えずにはいられなかった。日頃軽率に死にたがっている俺たちが瞬間的にでも確実に死を意識し、それに抗おうとしたのである。今年は早くも波乱の一年になりそうな予感がしている。共通テストの難化どころの問題ではなく、発狂して人を刺した高校生や津波や大雪などのその全てである。それら全てに多少の思いを馳せている。

 

俺はもっとはやく走らなければいけない。あの夕焼けに、自暴自棄に追いつかれないようにもっともっとはやく走らなければならない。

感情ウンコ概論a

私はとんでもないことを発見してしまったのかもしれない。

小学生の頃から「神童だ」「天才少年だ」「マセガキだ」などと言われていただけあって、俺のこの発見はそれは、ほんともう、令和の新時代に激震を起こすものであるのだ。では、それは一体なんなのかというとずばり、""感情ウンコ論""である。もちろん突然感情ウンコ論などと言われても気が違っているのかと言われてしまうかもしれない。つまり感情ウンコ論とは"感情とはウンコなのである。"ということだ。

 

感情とウンコには非常に多くの共通点がある。まず一つ目、感情(ウンコ)は恥ずかしいものだということだ。感情を露わにし、他人に激怒したり号泣したりすることは多くの人にとって恥ずかしいことである。言うまでもなく、脱糞してる様子やウンコを漏らしてしまった時も多くの人は恥を感じる。

そして二つ目、他人の感情(ウンコ)は迷惑だということだ。他人を慮ることなく、自分の感情のままなされる発言は他人にとって迷惑であることが多い。非論理的かつ感情的な行動、言動は他人に迷惑をかけてしまうことがある。言うまでもなくウンコもそうだ。自分の家の庭に誰かがウンコをしても笑って許してくれる人は少ない。

そして三つ目、感情(ウンコ)はくさいということである。他人に好意を伝えるときのキザな言葉というというものは時折、"くさい"と形容されることがある。この"くさい"とは一体何臭いのかというと、ウンコである。ラブストーリーにおいて「くさいかもしれないけど、一生そばにいてくれ。」というのは、「(うんこ)くさいかもしれないけど……」ということなのである。

さらに四つ目、感情(ウンコ)を溜め込むと病気になるということだ。自分の言いたいことをなかなか言えずにいるとパンクしてしまい、精神を病んでしまう。ウンコも同じく溜め込むと便秘になって胃腸を病んでしまう。適度に発散しなければ異常をきたしてしまう。

 

どうだろうここらでまとめてみよう。

 

  1. 感情とウンコは恥ずかしいもの
  2. 他人の感情とウンコは迷惑だ
  3. 感情とウンコはくさい
  4. 感情とウンコを溜め込むと病む

 

ここまで言われたらいくら物分かりが悪くても理解はできるだろう。他にも、赤ちゃんはウンコと感情がだだ漏れであるなどがある。

 

しかしここで、「でも感情を昇華させた芸術作品はウンコとは違って美しいじゃないか」と言ってくる人がいるだろう。その意見は感情ウンコ論初心者が陥りやすい勘違いだ。ウンコだって食べたものを消化してできたものだ、などというくだらないものではない。

今回は感情を表現しやすい歌を例に挙げて考えてみる。

確かに歌というものは作曲家作詞家の感情にメロディや詩をつけたものである。しかし作曲家作詞家にとって元々はウンコなのである。しかしそのウンコというものをいかに美しくいかに詩的に表現することというのが作曲、作詞ということなのである。作品を享受する側はそれをウンコだとは感じない。要するに芸術とはカレー味のウンコなのである。自分から出たウンコを美味しくカレー味にしているのだ。そしてそのカレー味のウンコを食べて、ウンコを作りカレー味にして提供することによって文化というものは継承されていくのだ。現代のバンドの基礎の全てはビートルズであるという言葉があるが、言い換えるとビートルズが巻き散らしたカレー味のウンコを食べた人のウンコのウンコのウンコのウンコのウンコくらいが現代のロックミュージックであるということだ。ミュージシャンは自分が作りたいものと求められているものの隔たりに悩むことがある。よく言われているのがカートコバーンのスメルズライクなんちゃらである。自分が好きな曲ほど評価されず自分が嫌いな曲ほど客に人気であるということは稀ではない。

感情ウンコ主義者の私からしてみればバンドなんていうものは一生懸命にウンコして見てもらっているようなものだ。恥ずかしいとは思わんのか。特にドキュメンタリー映像なんかウンコしてる模様をカメラに収めてるのとなんら変わりはない行為である。ライブ映像なんてのはステージの上でウンコを振り回し、それを見て目からウンコを流してるウンコの大乱闘状態である。しかし、カレー味のウンコを食べてウンコしてしまう人がいるのも事実。強烈な匂いが案外と癖になってしまうものだ。俺はこれからも感情ウンコ主義者として、天才たちのウンコを楽しもうという所存だ。

 

また、補講で"カレー味のうんこvs.うんこ味のカレー"もあるので興味がある人は是非。

 

参考にすべき素晴らしいウンコです。

ゆらゆら帝国 『美しい』(Beautiful) - YouTube

 

 

キネマ

最近、映画に興味が出てきてしまっている。正直に言うと、映画に手を出してしまったら俺は負けてしまう気がする。いや、別になにと戦っているという訳でもないのだがとにかく負けてしまう気がするのだ。今は本格的に手を染めているのは音楽だけだが、映画や小説にまで手を出してしまうと俺は完全にカルチャー大好き文系男子になってしまうのである。

話が逸れるが、少し前にどこかしらのサイトの編集長が書いた"カルチャー顔"についての記事が完全に炎上したことを思い出した。俺はその炎上の全容を知らず、カルチャー顔というワードのみを知っていたのでてっきりカルチャー顔というのは、髪はミディアムで眼鏡をかけており、少し髭を生やしていて身長は低めでデザインやらの仕事をしているっぽい人のことかと思っていた。まあ、それは俺の父親なのだが。しかし実際は「一般に美しいとされていないが、むしろ美しいと感じられる文化的な顔」みたいな感じだった。こんなもん完全にアホかと。なんとなく編集長の野郎の言いたいことは分かるが、もう少しやりようはあっただろう。というかまずそこまでこの題材を記事にする必要があったのか?無いだろ。まあ、作ってる自分が勝手に盛り上がってしまい、客観的に見てる方からしてみれば特に面白くもなく、なんなら軽く不快なくらいなものが出来上がってしまうことも少なくは無い。このブログもそうだ。

なんだ、そんな話どうでもいい。映画の話だ。前日、映画美学に関する本を買った。今まで映画をただ観ていたのだが美として、芸術としての見方を知りたいと思ってしまった。はっきり言って俺はもうサブカルキモ男だ。俺の笑った顔はバカリズムに似てるらしいので、アイドルにでっかいメロン食べたってリプを送ったら結婚できるかもしれない。かもしれなくねーよ!!!!!!!!!馬鹿じゃ無いか!!!!!

サブカルキモ男で思い出したが、今日「文学部の女が彼氏が罪と罰の主人公の名前を知らないという理由で彼氏を振ったらしい、文学部はすごい」という内容のツイートを見た。正味気持ち悪すぎてその場に琵琶湖できるんかってほどのゲロを吐いた。吐いてないけど。まずその文学部の女も激キモなのだが、このツイートをしたやつもキモい。これのどこが凄いのか。大学に入るまで男性とのコミュニケーションを全くとってなかったとしてもこんなことにはならないだろう。これは女が押しつけた価値観が世間的に教養があることとされているものだからよく見えるが、やってることはバリキモい。恋愛に冷める瞬間というものはあると思うが、その程度(本人にとってはその程度ではないのだろうが)のことで相手を振ってしまうというのはいくらなんでもキンモい。ある意味彼氏はそんな気持ち悪い女と別れることができて喜んでいるかもしれない。

また話がそれてしまった。映画ね。これだけは言えますが、映画には面白いものとつまらないものがある!!!!!!!!!

ということです。

 

令和の文豪

ブログなんてものを書くのは最早自己顕示欲がどぎついヤクザみたいな輩ばかりなのでしばらく辞めていたのだが、全くもってこのブログとやらは俺の生活に不必要なものだった。ブログを書かなくてもなに一つとして困らなかったし実際今書いているのも単なる暇つぶしであってどうしても書きたいわけでもない。しかしこのブログで俺は多少なりとも文章力が鍛えられたのか、夏季の課題であった読書感想文がコンクールに出品されることになってしまった。俺は文章を長ったらしく書き連ねることは全く苦ではないのだが、それを「テーマ」や「伝えたいもの」を中心にして書くのはそこそこに時間がかかるので普通に苦労して書いた。そもそも提出の前日まで一切の文字を読んでいなかったので既に読んだことのある本を選んだのだが、その本とは三島由紀夫の「命売ります」である。しかしこの本を読んだのは三年前に一度きりで普通に忘れてたし普通に苦労した。かなり適当に書いてしまったので先生からも「若干無理してまとめたね。」などと言われたが結果的には俺の作品が選出されてしまった。もうひとり選ばれた女子は完全に否定しており若干先生も引いているほどだった。

俺の文才にはたびたび驚かされる。小学生の時から既に俺は半分芥川龍之介みたいなもんだったので、創作小説的なものでも先生に激褒められしてそこで自分が芥川龍之介であることに気づいた。中学にあがっても自らの文才に気づかされることばかりだった。中学の時は半分太宰治みたいなもんだったので、毎日提出する日記では先生から絶大な人気を誇り、2ページを全て日記で埋め尽くしそれをむしろ褒められてさえいた。「日記を楽しみにしています」とか言われだし俺はいつからか完全なるエッセイストとなっていた。高校にあがってからも似たような文章を書くスペースで楽しみにされていたらしい。そして今回、読書感想文が選出され、国語の教師から「あなたはエッセイストになりなさい」とまで言われた。国語の教師にまで言われてしまったら、もうなるしかないのだ。前から思っていたのだが、もうエレキギターを歪ませたりライブハウスで大きな声を出したりする音楽は古い。今時、こんなもの流行らないし、音楽なんかやっててもモテない。モテたためしがない。すなわち俺はパンクバンドなんか辞めてエッセイストになると決めたのだった……。

 

追記

適当なことばかり抜かしていたが、パンクバンドはやめていない。読書感想文コンクールの参加賞で図書券1500円分を貰った。頭良さそうな本買ったので満足です。

戦え!エロガキども

ブログなんてもんは人生が上手くいってないときにしか書かないので、ここ最近とても幸せな日々を過ごしていたのかと錯覚を起こしてしまいそうになってます。みなさん、お元気ですか?

 

別にブログのネタに出来るほどではないがさっき起こった出来事を記します。

 

東進の裏の鳩だらけの公園、通称はと公園(俺しか呼んでいない)を横切った時の話です。俺が楽しそうに遊ぶ小学生を横目に歩いていたら、補助輪付きの自転車に乗っている男子小学生に女子小学生が自転車を貸して欲しいと懇願しており、俺は意味もなくそれを眺めていた。すると女子小学生が自転車にまたがる時スカートをふわっとさせて為、パンツが少し見えてしまった。俺はロリコンでもなければペドフェリアでもないので一切の興味の対象外であったが、通り過ぎて行く際に男子小学生が「今のオッさん、おまえのパンツ見てたぞ」と報告したのだ。

 

俺は二重の意味で悲しくなった。

まず俺がオッさんに見えていたということ。俺は制服のシャツ姿だったのだが、小学生からしてみればオッさんなのかと悲しくなった。ちなみに俺の顔面は老けて見える派とそうでもない派の二極化しているまあ、後者はほぼ吉田だけなのだが…。ちなみに堀尾君は30歳以上にもみえると言っていたが、それはさすがにない。ない…よな?

そしてもうひとつは俺が女子小学生のパンツを好むような変態ロリコン野郎に見えたということだ。まず俺のことを変態呼ばわりする輩がいるが、それは間違いである。なぜなら上には上がいるからである。そんなのなんだってそうじゃないかと言われればそうなのだが、変態というものは変態かそうでないかのボーダーラインはしっかりと別れているのだ。そのボーダーというのは口で説明することはできんのだ。いい加減にしろ。自らの教養の無さを恥じれ。しかし、小学生からしてみれば俺を変態だと勘違いしてしまうのもうなずける。彼にはこれから成長してしっかりとボーダーラインを学んでほしいものだ。俺が強く否定したいのは俺が変態であるということではなく、俺がロリコンであるということだ。これは断言できることだが、俺はロリコンではない。ロリモノもわざわざ検索してみることなどほぼないし、そもそも犯罪である。

 

人を見た目で判断してはいけないのだ。しかし、俺が本当に彼に伝えたいことはそんなことではない。電車に乗っているヤバイ見た目の人は大抵ヤバいことをやりだすし、割と中身というのは外見に現れるのだ。

本当に俺が言いたいのは、君もパンツを見ていたこと、バレてるよ。ということだ。

小学生という生き物は本当にバカである。そもそも俺がパンツを見てしまったということに気づくということは、少年もパンツを見ていたということになる。パンツが見えたときの少年の目線は確認できなかったのだが、彼女への報告のスピードからして「パンツが見えていた瞬間は俺の目を見ており、その後視線の先を確認した」という作業はできなかっただろう。大体俺は立ち止まってパンツが見える瞬間を逃すまいと凝視していたわけではないので、俺の視界にパンツは入っていたがパンツを見ていたわけではないとも考えられるのである。しかし彼はその可能性を一切考慮せず、彼女に報告したのだ。それは明らかに彼の意識の大部分をパンツが占めていたことを意味する。もし仮にパンツを見ていなかったとしても、その時の彼の脳内はぱんつ、ぱんつ、ぱんつだったのだろう。

高校生をなめるなよ、変態小僧め。君みたいなのはどうせお母さんのスマホを使いユーチューブやサファリで「エろ」もしくは「セックす」と検索しているのだろう。悪知恵を働かせ、わざわざまず「せっく」とだけ入力して変換し、その後「す」を入力変換しているのだろう。しかし親が来たとき急いで隠すため、履歴を削除するのを忘れサファリを開いてすぐに出てくるページの最近よく検索するワードに「エろ」と表示されてバレてしまうことだろう。そして「履歴」を「ふくれき」と読んでいることだろう。これはすべて経験談である。俺ではなく我が実弟の。最後のは母親から相談されてしまったのだ。まあ俺は「誰にでもあることだよ」と答えたが。一方俺は抜け目ない少年だったので履歴削除を怠ることはなかったし、いかに直接的でない言葉で検索するかを考えていた。

君のような短絡的なエロガキはいつかきっと恥ずかしい思いをする。

俺もかつて性の知識が浅かったころ、無印良品で母親に公園の滑り台に書いてあった「オナニー」という言葉の意味をまあまあ大きな声で尋ねてしまったことがある。あの時の母の気持ちを考えると今でも申し訳なく思える。

 

君も腹を痛めて自分を産んでくれた母親に恥をかかせてはいけない。もしかしたら君が気づいていないだけで君のお母さんは恥ずかしい思いをしているかもしれない。君のためにも君のお母さんのためにも君は上手な検索のしかたを学んで正しい知識を身につけなければならない。履歴を消去することを怠ってはならない。俺から言えることはこれだけだ。これからは君自身で学んでいくんだ。これから君にはたくさんの試練が待っているだろう。ワンクリック詐欺サイトを踏んでしまったり、前田〇子の全裸コラ画像を見て吐き気を催したり、イチモツを切ってしまったり。しかし負けてはいけないよ。君は戦い続けなければならない。君が童貞を卒業するその日まで…。

 

楽しいツイッターライフ

どうもこんにちは。バズリストです。

僕はツイッターを始めて1年とちょっとくらいなんですけど、とうとう"バズる"ことを体験してしまいました。それでは、僕がバズるに至った経緯を説明しましょう。

 

ある日、僕のFFである某ベーシストがあるツイートをしました。「浮気ってどこからだと思う?私は浮き輪。」彼女には申し訳ないけれど、僕には今これを読んでいる皆さんの頭上にちっちゃなクエスチョンマークが見えます。(そして、検索すれば簡単に誰のツイートかわかってしまう)ごめんなさいね。僕も全くわかりません。ダジャレとかで滑ってる訳じゃなく本当に何も掛かってないし。僕はこのツイートを目にした時、なんだが切ない気分になりました。どうして…どうしてこんなことを…と。そして僕が「つまらん」とリプライしたら「ならおもしろいツイートしてみろ。おもろかったら私の全アカウントでRTしたる。」と返ってきました。

そして約20分程であのツイートは世に放たれてしまいました。

皆さんは気をつけた方がいいですよ。ツイッターは恐ろしいツールなので本当に簡単にバズりますからね。

ツイートをした直後はそこまで大した伸びじゃなく、結構伸びたな。くらいだったんですが次の日の昼休みに知らん奴から「お前、炎上してるぞ!!!」と言われ、めちゃくちゃ焦ってツイッターを開いたら炎上ではなくバズってた。という訳ですね。その1日の伸びは本当にエグくて本当に通知とまらんやんけ!!!!!!状態でした。

けどね、これに気付かされたんですけど俺って全然承認欲求ないんすよね。まあ、これは承認欲求とはちょっと違うとは思いますけどいいね!されたりリツイートされたりしても本当に全く嬉しくなかったんですよね。今更リツイートとかしてるやつはマジで自分のタイムラインが遅れていることを自覚した方がいいよ。

まあなんやかんやであのツイートは約300万人に見られてしまった訳ですね。終わりました、僕の人生。あんだけの人数に顔を晒してしまうなんてどうかしてるとしか思えませんよ。おかげで人生初の"ガチクソリプ"も来て本当に楽しすぎ。最近は人生が楽しすぎて学校で何回も誇張しすぎたIKKOのモノマネさせられてるし、インスタのストーリーっていうのも本当に悪質でだれかしらが上げたものを見た奴がねだってきて、一昨日なんか道端で普通にモノマネしましたからね。これってどこかそういう機関に訴えればお金貰えませんかね。

 

このブログも本当に沢山の人が見てるらしいです。最悪です。恥ずかしくないのかな?俺。中学生の頃から課題のノートの日記や1日の振り返りなどの文才をよく褒められていました。このブログもその延長です。これのが自由に書けて楽しいですけどね。いや、ホントは全然楽しくないです。これ書いてる時真顔です。だいたい今をときめくJKやJDが僕のパンツやうんこやオナニーの話を読んで楽しんでいるという事実が最早バグってますよね。本当にこれを楽しみにしている女性は人生の大切なひとときを闇に葬り捨ててますよ。本当に時間の使い方には気を付けて下さい。後で後悔してもマジで知りませんから。受験落ちたとか言われてもマジ知りませんから。

 

 

クソブログ 2019

最悪だ。なにがあけましておめでとうだ。2019年になってしまった。

残念ながらこのブログ、沢山の人に見られているようだ。もともとなんのために書いているか分からないようだったのに、いつのまにか期待されてしまっているらしい。男ならまだしも女子高生はこんなブログ読まないほうがいいと思います。というかよく読んでられますね。いつら正月で暇だからってこんなブログ読むくらいなら親戚にお年玉せびったほうがいいですよ。早く読むのをやめなさい。今すぐに。ほら、なにまだ読んでんの。

もういいです。先生は失望しました。どうぞ、好きなだけ読んでください。でもこれを読んでるせいで彼氏に振られましたとか言われても責任とれません。

 

さて、本題に移ります。皆さんはいちご100%という漫画をご存知でしょうか。f:id:sinickrou:20190102205945j:imageもちろん、知ってますよね。いちご100%とふたりエッチは中学生男子にとって義務教育です。

いちご100%は主人公が学校の屋上で東條綾のいちごパンツを目撃することから物語が始まります。パンツはただの布です。可愛らしいデザインをしているというだけです。しかし、それが履かれているというだけで、それだけで男子諸君の心を刺激するというのです。

これをご覧ください。f:id:sinickrou:20190105123110j:imageワカメちゃんです。ワカメちゃんはいつもパンツを見せていますよね?男子諸君はワカメちゃんのパンツを性的興奮をするのか?答えは否です。ワカメちゃんが何故、パンツを見せているのかは話すと長くなってしまうので割愛させていただきます。

あれ?「ワカメちゃんはそもそも性的対象ではない!」とほざく輩の声が聞こえてきましたよ。ならば仕方がありません。f:id:sinickrou:20190105125603j:imageこちら、乃木坂46白石麻衣さんです。この画像、普段は絶対に見ることができない白石麻衣さんのパンツが丸見えなんです。しかし、男子諸君はこう思ったはずです。「なんか違うぞ…?」と。そうなのです。エロスというものは単純なようで複雑で丸見えになっていたら逆に??なのです。理由は不自然だからです。下着姿を晒しながらキメ顔で真っ直ぐ見つめられることなどありません。モデルが乳首が見えてしまっている衣装でランウェイを歩いていても興奮しないのと一緒ですね。

しかし例外はいます。卓越した童貞野郎は様々なものに性的興奮を覚えます。しかしキモがらないでください。多様性を認めていくことが大切です。

話を戻しましょう。勘のいい方はお気づきでしょうが、男子諸君が求めているものはチラリズムなのです。パンチラというのは勿論パンツがスカートからチラっと見えてしまうことです。スカートというのは危険な衣服です。常にパンツが見えてしまうことと隣り合わせです。しかし世の女子高生はパンツの上からジャージや見せパン(見せてもいいパンツなどあるのか)を履いています。期待しても無駄です。このようにパンツというものはとても魅力的な概念なのです。

 

最近、気になることがありましてイマドキの女子高生というのは一体どのようなパンツを履いているのだろうか。という問題です。

これは下心で聞いているのではございません。好奇心です。あとこれは俺がキモいから気になるのでもなく、クラスの男子諸君全員が気になっていることです。

成人女性、成人男性、男子小中高生、女子小中学生のパンツというのは大抵想像がつきますよね?しかし女子高生のパンツというのは全くもって皆目見当がつきません。親切な人が教えてくれたらいいんですが、世の中そうは甘くありません。知らないほうが美しいことも世の中にはたくさんあります。

今日はこのくらいにしといてやります。コメントを書けよ。

それでは。